晴耕雨読

晴耕 2020.07.24

内海建設の歴史【3】

こんにちは。菊川市の内海建設です。
弊社のブログ「晴耕雨読」では、「内海建設の歴史」をシリーズでご紹介しています。

第3回は、代表取締役の私こと内海明の高校時代を振り返ります。

過去の記事は↓コチラ↓です。
内海建設の歴史【2】
内海建設の歴史【1】

【普通科高校への進学】
私は中学校を卒業すると、大学の建築科への進学を目標に普通科の高校へ入学しました。それは、「これからの工務店経営は技術的にも幅広く知識を取得した方がいい」という父のアドバイスがあっての決断でした。


私が入学した高校は三島市内にあったので、入学と同時に三島市に下宿して通学することになりました。初めて親元を離れて暮らすこととなりましたが、幼い頃から中学校を卒業したてのお弟子さんたちが住み込みで働いている姿を見て育ったので、ほとんど抵抗がありませんでした。



【当時の家業の様子】
入学後の3年間は夏休みや冬休みぐらいしか実家に帰りませんでしたが、父親の事業は順調に推移しているようでした。私が下宿していた当時も、実家には住み込みのお弟子さんがまだ数人いました。

当時の内海建設は基礎工事も社内でこなしていたので実家に帰った際にはよく基礎の仕事を手伝いました(もちろん小遣いもちゃんともらいました:笑)。当時は今ほど機械化が進んでいなかったので、地面を手作業で掘ったり、セメントを現地で練っていたりして、かなり体力の要る仕事でした。


その頃の内海建設のことを振り返ると、よく頭に浮かぶのは建前の上棟式後の祝宴の光景です。


私の父親や当時の職人さんたちはお酒を本当によく飲みました。昔は建前の終わった建物の下で、お祝いに酒宴を交わすのがならわしでした。施主さんやご親戚の方々、職人たちが集まって驚くほど沢山お酒を飲んだものです。
それが終わると、「棟梁送り」といって、お施主さんが自宅まで棟梁を見送ってくださるありました。棟梁送りでは、お施主さんが上棟式の際に祀る梵天(ぼんでん)を持って、「よいこのさんせ」と掛け声を繰り返しながら棟梁を自宅まで送っていきます。そして自宅に到着すると、そこからまた飲み直しです。みんな自宅に上がり込んで、深夜までドンチャン騒ぎ……というのが通例でした。

ですから、建前がある度に、家の裏にはいつも一升瓶がゴロゴロしていたのを覚えています。忘年会などで近くの料亭に飲みに行った際にも、お店の人がびっくりするくらいの量のお酒を飲んだそうです。当時の職人さんたちは仕事も一流にバリバリにこなしましたが、その分、お酒も沢山飲んだということです。


【私の高校時代】
高校時代の下宿先は、飲食店を営んでいるお宅の2階でした。学校へは徒歩10分で行ける距離にあり、通学は便利でした。部屋は8畳間で、中学時代の同級生とそこに2人で寝泊まりしていました。食事も洗濯も下宿先のおばさんがしてくれたし、下宿仲間とも仲が良く、なかなか楽しい下宿生活でした。

高校生活は、親の目が届かないのをいいことにすっかり羽を伸ばして、勉強は好きな教科はしましたが、友人との交流に結構時間を使った気がします。サッカー部に所属していたので、入学後当初はサッカー部に入部したのですが、静岡県東部では当時まだサッカーがあまりさかんではなかったので、つまらなくなって退部してしまいました。静岡や富士、熱海など、遠方から通っている同級生も多かったので、私も電車通学に憧れて、放課後にわざわざ電車に乗って富士市の友人の家に遊びに行ったこともありました。

また、沼津市内の自動車学校に通って大型自動二輪の免許を取得し、友人のバイクに乗せてもらったりもしました。当時はまだヘルメットの着用も義務化されておらず、ノーヘルでバイクを乗っていた覚えがあります。

高校時代の好きな教科は何だったろうか? 振り返って当時の少ないノートとかの資料を見てみると物理はまじめに授業を受けていたようです。現代国語や古典も成績はよくなかったように記憶していますが、嫌いじゃなかったと思います。化学の授業は楽しく感じなかった思い出があります。

次回は私の大学時代と、当時の会社の様子を振り返ります。

どうぞお楽しみに!

文:代表取締役 内海 明

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