晴耕雨読

晴耕 2020.04.03

内海建設の歴史【1】

~創業者の歩み~|菊川・掛川の注文住宅&リフォーム会社 内海建設

菊川市の内海建設です。
当社は菊川市・掛川市を中心に、設計デザイン+施工を手掛ける工務店です。
創業以来、地域の皆様の暮らしによりそい、快適で安心・安全な住まいをご提供してまいりました。

そこで、皆様にもっと私たちの会社のことを知ってもらおうと、これからシリーズで当社の歴史をご紹介していきます。

今回は、当社の創業者である先代社長の私の父が、創業に至るまでの歩みをご紹介します。

【創業者の歩み】
内海建設が誕生したのは、今から65年前の1955年(昭和30年)。
先代社長の内海新一(私の実父)が結婚を機に、現在の社屋のある場所に住居兼作業所を構えたのがきっかけです。

内海新一は、1931年(昭和6年)、土方村(旧大東町)で7人兄弟の3番目として生まれました。
当時の日本は、世界恐慌後の大不況から脱却するために満州への侵略を策略し、父が生まれたその年から満州事変が始まりました。

父は国民学校を卒業後、現在の菊川市内で大工を営んでいた親方のところに弟子入りしました。

私が子どもの頃、父が晩酌をしながら、「務め先の親方は大変厳しい棟梁だった」と話していたのをよく覚えています。

何人かいた弟子の中で年季明け(修行満了)できたのは、親父を含めて2人だけだったそうなので、たぶん今では想像もつかないほど大変な修業だったのでしょう。
とはいえ、なにしろ酒が入ったときの昔話ですから、父がどこか誇張した部分もあるのかなと思っていた時期もありました。

しかし、ある日、親方を知る人から、「あの親方は結構厳しかったなぁ。あんたの親父さんもよく我慢して修行したよね」と聞いて、やはり本当の話だったのだと知り、父に対する尊敬の念を改めて抱いたものです。

年季明け後も、父はしばらく親方のところで仕事をしていたようですが、終戦を迎えて物資や食糧が不足し始めた頃、都会へ出稼ぎに行ったそうです。

当時の話も、父からよく聞きました。
田舎から都会に出てきた父は、なんら警戒心を抱くことなく日々を過ごしていました。

ところがある日、午前中の仕事を終えて昼食を取ろうとすると、弁当が無いことに気づきました。

・・・どうやら、浮浪児に盗まれてしまったようです。

結局、その日は夕方までお腹を空かして作業せざるを得ませんでした。

そんなことがあってから、あらためて周囲の仕事仲間を見回すと、みんな腰にお弁当を下げて作業しているのに気づいたと、親父が笑い話のように語ってくれました。

とはいえ、その日の午後は、さぞ空腹に耐えながらの過酷な作業だったろうと思います。

しかし、厳しい修業時代も、都会での仕事経験も、すべては後の起業と会社運営に生かされていくこととなります。

この続きは、またご紹介します。どうぞお楽しみに!

 

 

文:代表取締役 内海 明

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