晴耕雨読

晴耕 2020.05.19

内海建設の歴史【2】

菊川市の内海建設です。
弊社のブログ「晴耕雨読」では、皆様にもっと私たちの会社のことを知ってもらおうと、「内海建設の歴史」をシリーズでご紹介しています。
第2回の今回は、創業者である父が独立し、親方として弟子を育てながら新築工事を手掛けていた当時を振り返ります。

【創業と弟子の育成】

厳しい棟梁のもとで修業を積んだ父は、年季明け(修行満了)後もしばらく親方のところで仕事をしていましたが、今から65年前にあたる1955年(昭和30年)、結婚を機に独立し、現在の弊社の所在地に自宅兼作業所を構えました。

プレカット技術の進んだ現在とは異なり、当時は大工職人が柱や梁などの材木に墨付け(下書き)をして、ノコギリやカンナ、ノミなどを使って手や機械で加工していくという作業を、すべて自分の手でやらなければなりませんでした。今でいう「手造りの家」が普通にされていた時代です。
そのため、仕事が順調に入ってくるようになると、父は弟子をとり始めました。

最初に受け入れたお弟子さんは中学校を卒業したばかりの少年で、実は私の母親の弟、つまり私の叔父にあたる人でした。

最初のお弟子さんは住み込みで修行していたので、私たち家族と毎日生活をともにしていました。母は、6歳の私と4歳の弟、そして1歳の末の弟と、男兄弟3人の子育てをしながら、朝食と弁当、夕食の支度などの家事と合間には父の仕事を手伝っていたので、今から思うと相当大変だったろうなと思います。


(右から二人目が私です)

あの頃の生活は、ちょうど映画「ALWAYS 三丁目の夕日」そのものでした。
当時、我が家の風呂場とトイレは裏土間を挟んで離れたところににありました。風呂場の裏横には風呂炊きに使うために、材木を加工して発生した木の切れ端を置く物置があり、お弟子さんはその2階の5畳間ぐらいの空間に住んでいました。
叔父が住み込みで修行していた頃は、私も何度かそこに泊めてもらって、いろいろな話を聞かせてもらったりラジオで音楽を聴かせてもらったり子供ごころに楽しい思い出ががあります。

当時は、大工の親方に弟子入りをして修業を積み、年季が明けてから1年間御礼奉公をし、その後は独立したり、親方のところで一人前の大工として勤めたり、他の工務店に勤めたりしていたと思います。当時のお弟子さんは親方の家に住み込みで働き、休みは月に1日だけで、しかも仕事内容も厳しいものでしたから、なかには1年も満たないうちに大工の道を諦めてしまう人もいたように記憶しています。

お弟子さんは、仕事から帰ると母屋で夕食をみんなと一緒に食べてから、自分の部屋に行って休むという生活パターンでした。私の父親は、自分が厳しい親方についていたので、お弟子さんに対する態度教えも相当厳しいものでした。
みんなで夕食を囲んでいる時に父が晩酌をしながらお弟子さんに説教をすることもあり、私は子ども心にそんなに怒らなくてもいいのにと思ったりもし、大工仕事の修行の厳しさを身に染みて感じたことをよく覚えています。

父は、最初のお弟子さん以降も続けてお弟子さんを受け入れ、住み込みのお弟子さんが3人いた時期もありました。みんな食欲旺盛だったので、当時は毎朝かなりの量の米飯を炊いたと母がよく話していました。子ども時代の自分にとって、当時のお弟子さんたちはまるで兄貴のような存在で、可愛がってもらった思い出がたくさんあります。

結局、父のもとで修業をしたお弟子さんは全員で16人いました。年季明けまで務めた人もいれば短期間で挫折した方もいました。そのなかでも、最初のお弟子さんである私の叔父は、その後もずっと父のもとに残って自社大工として働き、現在も大工職人として弊社を支えてくれていて感謝しています。


(右が私、左が弟です)

私は父やお弟子さんの姿を間近で見ながら育ち、父や親せきから「お前は長男だから父親の後を継ぐのだ」と言い聞かせられてきた私は、せいか他の仕事に就こうという考えを抱いたことすらなく、自分は家業を継ぐものだと、子ども時代から思い込んでいたように思います。
そんな感じでしたので、この時代はどこもそうだったと思いますが、子どもの時からたくさん家業を手伝ったと思います。
だいぶ記憶は薄れましたが作業場の掃除をやったり木材料の切れ端をリヤカーに乗せて、お弟子さんと一緒に近くの銭湯へ売りに行ったりすることもありました。

そして中学校を卒業後は、大学の建築科への進学を目標に掲げ、高校の普通科に入学しました。

この続きは、またご紹介します。どうぞお楽しみに!

文:代表取締役 内海 明

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