晴耕雨読
晴耕 2021.02.15
内海建設の歴史【6】
みなさま、こんにちは。
菊川市の内海建設です。
当社の歴史をご紹介するシリーズの第6回は、代表取締役の私こと内海明が、父の会社・内海建設に転職してからのことを振り返ります。
■内海建設への転職
大学を卒業後、静岡市のゼネコンで働いていた私は、父が体調を悪くしたことから、27歳のときに内海建設に転職することになりました。
その前年には、中学時代に同級生だった家内と24歳の時に結婚をしました。
当時の自宅は現在の事務所の場所にあり、結婚後は私の両親と弟もいる世帯に同居を始めました。
今思うと、よく一緒に暮らしてくれたなと、家内には感謝しています。
父の会社に転職後、しばらくの間は、高校時代の頃から手伝っていた基礎工事の仕事を職人さん達と一緒にやったり、父の営業に同行したり、図面や見積りなども少しずつ勉強したりしながら、全般的なことを学びました。
■当時の会社の様子
当時の会社には父と私と事務員さんの合わせて3名と、自社の大工さんがピーク時で12人、基礎工事の土工さんが4~5人いました。会社のピーク時の着工棟数は、新築とリフォームを合わせて年間で約30棟に上り、当時の菊川近辺の住宅会社の中では、仕事量はかなり多かったと思います。
昔はプレカット工場などはなかったので、大工職人が作業場で墨付け(寸法取り)と手刻み(木を切断したり、削ったり)で木材を加工していたため、雨の日でも仕事があり、職人が一日たりとも、時間を持て余すことはありませんでした。
当時のこの辺りの住宅会社としては珍しく、大工さんも社会保険に入っていたので、60歳で退職した当時の自社大工さんは後年、「周りの大工さんに比べて年金を多くもらえて助かりました」と喜んで話してくれました。当時は社員が多かったので、会社として社会保険料を沢山払っていた時期もあり、父も大変だったと思いますが、社員をずっと大切にしてきたことはとても立派だったと思います。
■昭和時代の家づくり
昭和の父の時代が造っていた建物は、現在ほどには平面プランに時間をかけていなかったように感じます。新聞広告の裏にお客様が描いてきた間取りをベースに整理して、確認申請のために図面を設計士さんに作成してもらうという感じで、プランの内容がまとまるのが、今よりずっと早かったように思います。また断熱性や気密性のことも、それほど重要視していませんでした。住宅業界全体もあまり気にかけていなかったように思います。
平面プランでは、ご主人が中心となって間取りを考えるケースが多く、細部は大工さんにお任せというケースも結構ありました。
そのため、築数十年が経過してリフォームや建て替えを希望される際には、「新築時には奥さんの意見を反映できなかったので、建て替えやリフォームは奥さんの好きなようにさせてあげたい」とおっしゃるご主人もかなりいらっしゃいます。
■時代の変化と事業体制の変化
昭和から平成へと時代が移り変わるのと同時に、家づくりのスタイル自体も徐々に変化していったように思います。それを如実に感じ始めたのは、今から35年程前(1985年)、会社の近くに「青葉台住宅団地」ができたのがきっかけです。市外からの転入者が増え、ハウスメーカーの家も沢山建ち始めたことから、新しいスタイルが普及し始めました。
たとえば、お客様と何度も打ち合わせを重ねて、間取りのプランを練ったり、デザインや性能などを検討したりと、「注文住宅」という名称通り、すべてにこだわって家づくりを進めていくスタイルが徐々に定着していった感じです。
そのような時代の変化に伴って、社内の事業体制も徐々に様変わりしていきました。
基礎工事の部門は、私が入社した当時はまだ続けていましたが、昭和から平成へと時代が変わったのとほぼ同時期に廃止をして外注体制にしました。そして、平成4年(1992年)には、父親の内海新一に代わって私が代表取締役に就任しました。
その後、当社では、平成6年(1994年)10月にINAXが運営していたリフォームショップ「LIFA」に加盟してリフォーム部門を立ち上げることになりました。
また、リフォームショップの立ち上げにあたり、リフォームの選任スタッフとして、現在「LIXILリフォームショップUTSUMI」の店長を務めている岡田が入社しました。
次回は、そのリフォームショップについてご紹介します。お楽しみに!
文:代表取締役 内海 明