晴耕雨読

晴耕 2020.08.29

内海建設の歴史【4】

みなさま、こんにちは。
菊川市の内海建設です。

当社の歴史をご紹介するシリーズ。
第4回は、代表取締役の私こと内海明の大学時代を振り返ります。

【大学生活のスタート】
高校を卒業後、私は日本大学の建築学部に進学しました。御茶ノ水のキャンパスへ通学することになりましたが、親元を離れて経験した高校生活3年間のおかげで、廻りの環境にもすぐ慣れました。入学前に、住む所も一人ですぐに見つけることができました。
友人もすぐにでき、私のように他の地方から出てたきた学生、地元都内の自宅から通学する学生いろいろ出会いがありました。

 建築学部は文字通り、建築について研究する学問を勉強する所です。
体系はざっと次のようになっています。
【構造系】
●建築構造学
●建築材料学

【計画系】
●建築計画学
●建築意匠学
●都市計画学
●建築史学

【環境系】
●建築環境工学
●建築設備学

自分が進む道が決まっていた事と高校が普通科でしたので、どの授業も新鮮な感じでした。
中でも「建築計画学」は建築物の設計のプロセスを基本から学べる事ができ、その当時の演習したスケッチ、夜中まで描いた製図や制作した模型の写真を見返すと、その頃の自分に会えたような気がします。

他には「建築構造学」の中に含まれていたのかどうか忘れてしまいましたが「応用地質」の授業も教授の講義が解りやすく結構興味を持って受講していました。
特に「プレートテクトニクス」の講義で「伊豆半島は南の方からフィリピン海プレートに乗ってやってきた」の説明は今でも記憶に残っています。
最近の資料からも、東京大学の地学科でプレートテクトニクスに基づいた講義が行われるようになったのは、1986年からだそうで、当時はまだまだ日本では受け入れられていなかった「プレートテクトニクス論」を当時に聴講できたんだなと今になって思います。こ
の頃購入した科学の学術研究月刊誌をまだ保管してありますが、専門誌でさえ「プレートテクトニクス」の説明図をみると北米プレートが抜けていたりしていて、まだまだ未熟な「プレートテクトニクス論」だったような気がします。
そういえば、就職してから「伊豆半島は南の方からフィリピン海プレートに乗ってやってきた」の話を上司にしたところ、「バカな事を言ってるな」と怒られた事もありました。

もうひとつ、若いころからパソコンに興味を持ったきっかけになった授業に「FORTRAN(フォートラン)」がありました。FORTRAN は1950年代に誕生した、世界初の高級プログラミング言語で構造計算のような、数値計算プログラム作成に特に適しているということで科目になっていたかと思います。授業では簡単な計算をコンピューターに命令するためのコマンドの入力の仕方などを学習したような記憶がありますが、その後、独学でやってみた「BASIC」や「MSDOS」につながったように思います。

【学生時代、良い経験になったアルバイト】
親には学費やアパート代を払ってもらっていましたが、趣味や洋服ために学校帰りにアルバイトを授業に支障のない範囲で一生懸命やっていました。
バイトで一番長く続いたのは、渋谷の宇田川町にあった蕎麦屋さんでした。その店は愛知県の知多半島に本店があるお店で、「蕎麦」と「うどん」を手打ちで提供していました。
仕事の内容は皿洗いが主でしたが、時間のある時はうどんの仕込みも手伝いました。
うどんは生地を布で包んで、足で踏みしめて作ります。私もそれを手伝わせてもらったりしました。
お店はNHKの渋谷スタジオ近くの坂を下ってきた所にあったので、芸能人の方もよく来店されました。当時NHKのドラマに出ていた女優の松坂慶子さんが俳優の近藤正臣さんと一緒に来店したことがありました。
その日二人が食された「うどん」は当時の私が「心を込めて踏みしめて作ったうどんでありました。(^^)/。

他には、お弁当の配達のバイトもやりました。配達先は原宿のアパレル関係の店や美容院で、ファッションの最先端の店に弁当を届けるという面白味のある仕事でした。

春休みには同級生に山形出身の友人がいて、山形の蔵王に当時あった「ホテル ニューオータニ」のレストラン部のボーイのアルバイトを紹介してもらい、1か月ほどホテルの社員寮に寝泊まりして働きました。


「バイトをしながらスキーを好きなだけできる」と勝手に想像して、親父から借りた360CCの軽自動車に中古で買ったスキー板を乗せ、友人3人でぎゅうぎゅう詰めになりながら東北自動車道で山形に向かったのを覚えています。それまでスきーは未経験でした。
ちょうど社員寮で同室だった年配の方が、ホテル専属のプロスキーヤーだったので、その方の肩と腰もみを交換条件にスキーをタダで教えてもらいました。天気の良い日は、仕事の合間にスキー場へ行き、スキー三昧で想像した感じの毎日でした。おかげで東京に戻るころにはずいぶん上達し、スイスイ滑れるようになりました。

他の夏休みや春休みなど、長い休みの期間中は実家に帰って父の仕事の手伝いをしました。
当時の内海建設は新築建て替えの依頼を受けると、旧宅の解体工事と基礎工事、大工仕事は自社の職人でこなしていました。解体工事の費用は現在から考えると3分の1程度で、大体50万円前後だったと思います。私も自社の大工さんや関連施工店の職人さんと一緒に解体工事の手伝いをよくやりました。
また、当時すでに車の運転免許も持っていたので、ダンプに乗って基礎工事で使うコンクリートを運んだり、基礎の穴を掘ったりしました。今では解体も基礎も専門の業者さんが行っていますので、当時の経験は大変貴重で、社会に出てからも役立ったように思います。

他には父が知り合いの設計事務所でもアルバイトさせてもらったこともあります。
アルバイト代はほんの小遣い程度でしたが、勉強のつもりで行ったので良い経験になりました。今でいえば「インターンシップ」というのでしょうか?

【他に大学時代に夢中になったこと】

バイト以外では、なんと言ってもサーフィンですが、これはまた別の機会にまた話します。

卒業後の進路は、Uターン就職しか考えませんでした。そして、父親の知人の紹介で、静岡市内のゼネコン会社に就職することになりました。次回は社会人になってからの思い出を綴ります。

どうぞお楽しみに!

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